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オピニオン 2022.01.11

花魁の歴史

花魁の歴史

京・大坂・江戸の三都の遊郭では、最高位の遊女を「太夫(たゆう)」と呼んでいました。
太夫は、江戸時代にあった遊女屋(遊郭)で働く女郎のことで、女郎の中でも格上の存在でした。
江戸時代初期の太夫は、関ヶ原の合戦で徳川家康が率いる東軍に負けた武将の子女だったとも言われています。どんな高貴な身分の人にも対応できるように芸事や教養を身につけ、美しさだけでなく学問や人間性にも優れた者が太夫を務めたのは、そんな背景があったようです。

しかし、遊女屋が江戸中で乱立したため、風紀を正そうとした江戸幕府は遊女屋を認可し、当時は僻地だった日本橋葺屋町に遊女屋を一点集約しました。
これが、「吉原遊郭」の原点です。

当初、吉原遊郭は日本橋葺屋町の東側に開設されましたが、明暦2(1657)年に発生し、江戸の大半を焼いた大火災「明暦の大火」の後、「新吉原」として浅草千束村へ移りました。そして、新吉原では、いつの頃からか太夫を「花魁」と呼ぶようになったのです。

「おいらん」の語源にはいくつか説があり、妹分である禿(かむろ)や新造が「おいらの所の姉さん」と呼んだことが元になっている説が有名ですが、定かではありません。

明治以降になると、政界や財界の社交場所は東京の中心地に近い芸者町に移り、吉原遊郭は次第に縮小していきました。
そして昭和時代、第二次世界大戦後に売春防止法が制定され、吉原遊郭の歴史とともに花魁は消えたのでした。

花魁道中

花魁道中とは、花魁が馴染み客を迎えに行くときや、特定の日に美しく着飾って遊郭の中を優雅に練り歩くことです。
花魁を美しく飾っていたのは、華やかな打掛に、分厚い綿が入った裾回しなどのゴージャスな衣装、大きく結われた盛り髪とたくさんのかんざし、そして足元は、素足に黒塗りの高下駄がお約束でした。

妹分である禿や新造、荷物持ちの男衆で行列になり、この様子が旅に見立てられたことから「道中」と呼ばれるようになりました。

花魁道中の際は、歩き方も特徴的でした。黒塗りの高下駄を履いた足を八の字を描くように踏み出す「八文字」で、周囲を魅了しました。「八文字」は、マスターするまでに3年かかるといわれています。

美しいだけではなく、魅力的な表現やしぐさ、そして教養などの内面的な要素も、花魁が世の男性を惹きつけた魅力だったのかもしれません。

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